神は、我々を人間にするために、何らかの欠点を与える
というシェイクスピアの名言があります。
解釈は千差万別あると思いますが、そのひとつとして「人としての謙虚さや可愛らしさなどを知らせるために欠点を与えた」って捉えることができます。
私も、そのように捉えて解釈しました。
でも、よく考えると、人には欠点はないのです。
だから、なぜか違和感があったので、その違和感について話したことをあたらめて書いてみたいと思います。
あなたが思う欠点は、他の人には美点かも知れません
自分では欠点って思っていたとしても、他の人からは羨ましいって感じることがあります。
例えば人と話を合わせられないとか、それが自分の欠点だって思っていたとしても、他の人から見れば自分の意見を通せるすごい人、 自分の考えをしっかり持っている人で良いなって感じて美点と捉えているかも知れません。
人と話しを合わせられないって言ったとしても、それは自分にとってその話がとても重要なことだからこそ、どうしても譲れなくなるのです。
それで、合わせられないっていうことが起こるのです。
それに、人と合わせられないっていうことが欠点だって捉えているっていうことは、人と合わせたいって思っているってことなんです。
だからこそ、そこに自分は価値を置いていて、足りない欠けていると感じて欠点だって捉えてしまうんです。
私は料理ができないんです。
それは他の人から見たら欠点かも知れないし、私自身も欠点だと思うんですけれども、 特に私は「料理」ということを重視していないので、「料理できないんですよ」って思うだけで、そこをとりたてて欠点だとは思わないのです。
それは私自身食べることがあまり好きじゃないっていうのもあるし、 自分で料理しなくても食べるものがあるし、料理しなくても食べられるものが売っているという、恵まれた環境にいるからなんですよね。
これがもし無人島に行ったとか、災害が起きて、お店で何も売ってないとか、そういう状態になって自分で何とかしなければいけない状況になったとしたら、料理ができるということが大きな価値を持ち、それに伴って、料理ができないというのは、なんて大きな欠点なんだ!なぜ克服しなかったのだろうと悔いると思います。
そういう風に置かれた場所、自分が何に価値を置いているかによってその物事の捉え方が変わってくるのです。
欠けているものは何もないです
欠点、欠けているもの。
自分ではそれが欠けているって感じたとしても、違うことで必ず与えられています。
私の料理ができない。それは包丁が怖いからってことなので、包丁が怖い、じゃあどうする?と考えた時、手でちぎってできるものにするとか、ハサミを使うとか、そういう感じで別の方法が与えられる。
そして、料理をする時間を他のことに使えることができます。
何らかの欠点で欠けていると感じたとしても、それに代わるものが必ず与えられています。
冒頭のシェイクスピアの名言で
人間にするために欠点を与えられたのであれば、
人それぞれの欠けていると思い込んでいることを、他の人たちで補い合って生きていく。
それが人間なんだよと教えるために、神は欠点を与えた
と私は捉えたいと思います。
あなたにとって欠点だと思うことは何ですか?
それは、本当に欠点でしょうか?
最後までお読みくださいましてありがとうございました。
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