出来事は脳の錯覚。物語はいらないけれど、自分の物語で生きる

他人も自分もジャッジしない。

出来事は全て脳の錯覚

と、ドクター・ジョン・F・ディマティーニ博士はおっしゃっています。

脳の錯覚?

分かるようで分からないけど、分かるような…。

そして、物語の中に生きてはいけないと言います。

その2つのことを私なりに考えてみました。

 

過去の記憶から判断しています

人間の脳には、自分で意識して感じて体験して理解している顕在意識と、無意識に行い経験している潜在意識があります。

物事が起こった時、私たちは瞬時に自分が経験してきたことを想い出し、そのおこった出来事に重ねて判断します。

例えば、
私は子供の頃いじめられていたので、教室では私の隣に座る人はいませんでした。

そして、2人ずつペアになるように言われても、誰もペアになってくれず、いつも一人ぼっちで取り残されて、先生とペアになっていました。

それ以来、大人になってからも、大勢が集まる場所が怖いし、座る場所がフリーだと、何だか嫌~な気分になり、2人ずつになってくださいと言われると、泣きそうになって、その場から逃げ出したくなります。

もし、その時に本当に私の隣に座る人がいなくて悲しい思いで座っていたとして、そして、その時に赤い眼鏡をかけていた人と目があったとしたら、

「私が仲間外れにされているのを、赤い眼鏡の人が見て笑っていた」と、記憶がゆがめられて思い込むかもしれません。

そして、それ以来、赤い眼鏡の人を見ると警戒してしまうことになりかねません。

このように、過去の記憶から脳が錯覚するのです。

だから、私はいつも最初から「嫌な予感」とか理由をつけて、ダメに違いないと思い込み、間違った方向に進んでしまっていたのかも知れません。

そして、その過去の記憶の判断は、世間の常識や誰かの正解であることも多いのです。

物語は必要ない

過去の記憶の中で、楽しいことや嬉しかったことの記憶は、自分の自信につながって、更に新しいことや希望を作り出します。

でも、苦しいことや悲しいことは、更に苦しみを作り上げることになりかねません。

誰かと話している時に、辛い話を笑い話に変えて生きていける状態ならば良いのですが、辛い時に辛いと言い、それに共感してくれる人がいたとしたら、辛い話をすると、人は自分に共感して寄り添ってくれると思い、その辛い状態でいる自分に酔ってしまいます。

そして、辛い物語を作り、その中で生きていきます。

勝手に脳が辛いストーリーを作り出して、そこにいるのが心地よく感じてしまうのです。

起こったことは全て単なる出来事。

そこから、どんな解釈をするのかは自分の気持ち次第という事になります。

例えば、やり切れない思いや悔しいことがあった時に、愚痴を話したくなりますよね?

私は愚痴だらけの人間です。

でも、愚痴を言ったばかりに、その思いが更に増してしまうことってありませんか?

愚痴を言ってスッキリして次に進めれば良いのですが、私は自分の発した愚痴と言う物語に振り回されてしまいます。

そして、その物語通りに生きていかないといけない気になるのです。

だから、何か出来事が起きた時には、一呼吸おいて、客観的に出来事と自分の状況を見て、主観的に自分が納得することが必要になります。

自分の物語で生きる

物語は必要ないと書いたばかりなのに、「自分の物語で生きる」って何?って感じですね。

出来事から作り出した物語に、心底納得して生きるのであれば良いのですが、そこに他人の価値観が入ってしまうと、その誰かの価値観に沿った物語で生きることになります。

起こった出来事の中に、自分の納得する意味を見つけて、その出来事をキッカケに新たに作り出した物語に全力を注いで生きること。

諦めずに自分の物語を完結させるための更なる物語を作り出すこと

まとめると、出来事には物語は必要ないけれど、生きていく心のよりどころとして、自分の物語は必要なのではないかと私は思います。

そして、幻想では生きない。

あなただけの人生の物語を作っていきましょう。

そのために、私にお手伝いできることがあれば嬉しいです。

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最後までお読みくださいましてありがとうございます。


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